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CALIFORNIA

≪LA最初の半年≫

長かった。最初の半年はすごく長く感じたな。
きっと初めてづくしというか、戸惑いだらけだったんだと思う。
なんかすごーくいろんな事をしたと思うんだけど、あれもこれも最初の半年だったんだな。



ホームステイという言葉は一般的だけど、私の場合は間借りというか、
ああいうのを下宿っていうんだろうか?
家主のおばちゃんは私の母の1つ年下。
ルームメイトというより、やはり「娘さんをお預かりします」的な、責任感があるようだった。
とはいえ、大人同士として対等に付き合ってくれていたと思う。
余計な口出しや詮索は全くしない、どちらかと言えば放っておいてくれて、私としては居心地がよかった。

この家にはね、白いテリア犬がいたんだけど、ちょっと小デブちゃんで、人なつこくって可愛かった。くさかったけど。(^^;
帰ると必ず出迎えに来てくれて、テリアはみんなそうかもしれないけど、伏せた状態で後ろ足もびよ〜んと伸びちゃうのね。 完全に体が伸びきった状態でしっぽだけパタパタ立っててすんごく可愛かった。 その両前足をもってずるずるひきずり回して遊んでました。^^
言葉もつたないし、とにかく何もわからない状態のLAで、知的レベルはその子と一緒じゃないかと思うくらいだったので、しばらくの間、私の一番の仲良しさんでした。

奮起
テキサスでは、かなり他の国の子達とも仲良くなって、自信をつけていた私。
でもLAでレギュラー(正規学生)になってみたら、全然友達ができない…
新入生でも、アメリカ人同士はどんどん仲良くなっていってるようなのに、
なんだか自分だけがクラスで浮いている(沈んでいる?)ようで、辛かった。
もちろん、他の留学生や、ましてや日本人なんてすぐ友達になれるけど、
私はアメリカ人の中に入っていきたいと思って、そもそもLAに乗り込んだ。
テキサスでできたんだからLAでもいけるだろうと思っていたのに、全然勝手が違ってた。
なかなかしゃべるチャンスもなくて、勉強も全然ついていけないし、
悔し涙に明け暮れていた。
そのうち春休みになって、私は懐かしいテキサスに遊びに行った。
右も左も判らないLAから、ちょっと逃げたかったのかもしれない。
はっきり言ってろくに英語をしゃべっていなかったので、久しぶりに英語の生活に戻れた感じだった。

私がテキサスの語学学校に居た頃、ちょうど同じ時期に入学してきた友達が、まだそこには居た。当時あまり英語がしゃべれず、下の方のクラスにいたその友達は、一年経って、大きく変わっていた。レギュラーのアメリカ人、後から来た他の国の留学生、日本人、多くの友達に囲まれ、しかもその寮の主(ぬし)のようになっていた。
通常2人1部屋の寮で1人部屋に住み、そこに昼となく夜となく様々な人が訪ねてくる。
いろんな人間が「○○、あそぼー」とやってくる。 彼女の一言でみんなが動く。
正直、悔しかった。 
私は何をしてたんだろう? 
テキサスではそこそこ英語ができたからって中心人物気取りだった。
それで、今何してる? レギュラーになって私の英語力はアップしたか?
彼女に追い付かれて、追い越される勢いじゃないか。
学校行って、教室に座って、時間になったら家に帰って、それだけじゃん、毎日。
何やってんだ、私。 友達できないとか甘えた事言ってんじゃねーぞ。
自分から別の場所行ったんだから、そこでなんとかしろよ。 1から頑張り直せよ。
今のままじゃ駄目だ。 私はもっと頑張れるはずだ。
―――テキサスでの春休みは、萎えていた私に喝を入れてくれた。
ちなみにその友達とは、今でも一緒に旅行に行ったりしている。

10時から女?
むかーしむかし、栄養ドリンクのCMで「5時から男」というキャッチコピーがあったのを覚えていますか?
納波が高校生の頃、「5時から女」と呼ばれたことがあります。
それは別に、私が夜遊びをするからではなくて、朝は低血でボ〜っとしているのが、
午後になるにつれて元気になってくるかららしいのです。
で、それから5,6年経って、私はLAに居ました。
当初の予定通り、仲の良い日本人の友達を2人に絞り、
この2人とはよくつるんで遊びました。
テキサスでは、一度遊びに出かけたら朝までコースがザラだったので、
3人で飯を食った後も、まだまだ遊ぶ気まんまんです。
全く自覚はなかったのですが、どうやら午後10時になると、
まるで時報を聞いたかのように突然テンションが上がると言ってよく笑われました。

  

桜の代りに眺めていた紫の花

  

 

 

 

ダウンタウン
渡米前から、現地では意識的に日本の物を避けようと思っていたし、実際極力避けていた。
理由はいくつかあるが、要は「自分をより追い込むため」だ。
しかし、万が一、どうしても辛くなった時、自分の気力だけで持ち堪えられなくなった時には、
これの力を借りて乗り切っていこうと日本から持っていったものがある。
「これだけは」、「これさえあれば」というもの。
それが私にとっては「ダウンタウン」だった。
そう、あのお笑い芸人の2人組み、ダウンタウンですよ。
そんな大袈裟な、と笑うなかれ。
私はもともと友達を作るのが苦手だ。 友達に相談したり、頼るのはもっと苦手だ。
辛い時ほど、人には会いたくなくなる。 だから1人でなんとかするしかない。
もう駄目だ、もう本当に限界だ、と思った時、無理矢理でも気持ちをひっぱり上げる、
最終手段。そのつもりで、私は120分テープ3倍6時間きっちり、自前の「DOWNTOWN上・下巻」を持って渡米した。
だって私にとっては確実に笑わせてくれるものだったから。 
そういう意味では、ダウンタウンはノーリスク・ハイリターンだからね。
当時の私にとって、いやそれは今でも思っているのだけれど、
「笑う」というのはとても大事だ。
笑顔を失ったら、辛いだけだよ。 やっぱり人は笑わないと。
辛くても、ちょっとでも笑顔になれたら、気持ちもなんとか上向きになるものだ。

まぁ、実際渡米してみると、そんな極限まで行かなくっても気分転換程度に見ちゃったりした。何度も見ちゃうとやっぱり新しいのが見たくなって、日本から送ってもらったりした。(^^;
「わかってる」友達は、定期的にダウンタウンがいっぱいつまったビデオを送ってくれました。
6時間全部「ひとりごっつ」だった時は、友達を尊敬しました。

RAVE(レイヴ)
クラブは結構いろいろ行ったけど、LAの最初の半年で一番覚えてるのがRaveかな。
その頃調度アメリカ人の彼氏ができて、クラブもよく連れてってもらった。
彼の友達の一人にDJがいて、ある日私達が遊んでた所に合流してきて 
「今日のRave、知り合いのDJが回すんだけど」って話になって、数人で行きました。 
Raveについては本編にも書いたので参照してください。
まだ車もなかったし、全然土地勘もなくて、どこに連れていかれたのかさっぱり分からない。(^^;

車を降りると、道端に石ころみたいな、何かの破片みたいのが、
大小いーーーっぱい転がってる。
なんだろう? プラスチックの破片? なんでこんなにいっぱいちらばってるの?
と思って自分の足元をふとみると!
あぁ、思い出しても寒気がするっ。 鳥肌でそう…!
それ、ぜんっぶゴキブリだったの。(T_T) 
道いーーっぱいに転がってると思った石ころ全部ゴキブリ!!
信じられる? ちょっと想像してみてよ、鳥肌立つから。 きぇーーーっ。
まじで気絶するかと思った、その数! あぁ、気持ち悪っ。
あそこまで来ると、声も出ない。 硬直。 まじ。 本当、自分でも偉かったと思うんだけど、踏まないようにピョンピョン飛びながら駆け抜けたよ。 よく泣かなかったと思うよ、本当に。 もう二度とごめんだわ、あれは地獄だわ。

マッハGOGOGOのビデオが、もちろんそれっぽく編集されたやつだけど、
壁にいくつも流れてたのを覚えてます。 トランス系の音がガンガン流れる中、
「まけじだましー おやゆずりぃ♪」と歌っていたのは私です;;
内装も何もあったもんじゃないんだけど、とにかくスピーカーだけはごっつくて、
時間がたつにつれて、スピーカーの方にどんどん人が集中していって、
終いには積んであったスピーカーが轟音と供に崩れ落ちました。(笑)

ビーチ
一般にLAと言ってる地域というのは、日本では関東地方全域と同じくらいの大きさがあります。結構な大きさでしょう? それを一言で「ロス」と言ってしまうにはあまりに広い。
それはさておき、この辺りにはたくさんのビーチがあって、それぞれ客層も違ってたりする。
納波が一発で気に入ったのがハンティントン・ビーチ。 有名と言えばあまりに有名だ。 サーフィンなんか縁がなかった私はちっとも知らなかったけど。
マンハッタン・ビーチもなかなかお洒落で、若者向けって感じですね。
でもあそこは狭いのよ、道もよくわからんし;
逆にお年寄りや家族向けって感じなのがサンタモニカや、小さい所だとシール・ビーチ。
そうそう、お年寄りと言えばレドンド・ビーチに多いらしいね。
マリナ・デル・レイは、シーフードを食った思い出くらいですが、のんびりした所だったね。
マリブはとにかく綺麗だったわー。 なーんにもないけどね。 海と豪邸のみ。
ニューポート・ビーチも金持ちエリアかな。 でももっと開けてる。 
レストランやらモールやら。


最近はもう、ハンティントンもいろんな人がいるんだけど、当時は本当に黒人がいなかった。
今でも少ないけど、あの頃、白人ばかりが目について、ちょっと気になった。
黒人ばかりの地域に住む白人の彼に聞いてみた。
「ここってベニス・ビーチやなんかと違って、黒人とかメキシカンとかいなんだね。なんで?」って。
白人ばかりの場所で肌を見せるってのが抵抗あるらしい。 サーフィンしないとかじゃなくて。
別に差別されるとかじゃなくて、自分らが、やっぱりちょっと抵抗あるんだってさ。
ま、サーフィンそのものはローカルの人間がのさばってたりとか、いろいろあるらしいけど。
黒人やメキシカンが多く住むロング・ビーチには、逆に白人がいなかった。
ていうかロング・ビーチはビーチであってビーチでない、あれは工業地帯で、タンクが行き来する港だからね。

LAダウンタウン
中1の時、当時人気絶頂だった少年隊のビデオ「LA・LA・LA」を見て以来、LAになんとなく憧れていた。 特にメルローズってストリート、かっこいいなぁ、と思っていた。
それから10年余り…LAダウンタウンには彼氏や他の友達と寄ったこともあったが、
テキサスから友達が遊びにきて、その時になって初めてメルローズへ行った。
最初に入ったジーンズ・ショップ。 入っていきなり、背後から聞こえた日本語。
「カンコウ? ホテルドコ?」 は?と思ってみると、にやけた白人店員が1人。
これが、私が10年以上憧れていた場所なの?
「遊び行くから番号教えてよ。イツカエル?飲み行こうよ。イイトコアル。ホテルハ?」
…がっっかりだよ。 
そいつにむかつく反面、ここもバカな日本人女に汚染されたかーと思った。
憧れのLA行って、最初の数ヶ月で早くもLAダウンタウンには愛想が尽きてしまった。
特にメルローズは、よっぽど友達から誘われない限りは近づかないようになった。

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